真光山恵法寺の紹介


恵 法 寺 全 景 航空写真





山 号 ・ 寺 名
 しん   こう   ざん     え    ほう   じ     
 真  光  山  ・ 恵  法  寺
通 称
   すいきんくつのてら/ いさわのびしゃもんてん/ くさき・はなのてら /いさわのしちめんさん
 水琴窟の寺/石和の毘沙門天/草木・花の寺/石和の七面山
所 在 地
           やまなしけん ひがしやつしろぐん いさわちょう よっかいちば
 406-0032 山梨県東八代郡石和町四日市場2282
交 通
 JR中央本線石和温泉駅下車 [タクシー4〜5分/徒歩20分]
  石和 高 速 バス停 下車  [タクシー2分/徒歩10分]
場 所
 国道20号線沿い 四日市場交差点より南東50メートル








  恵法寺は、室町後期、足利義晴・義輝の代、戦国時代にかけて、
  身延山13世日伝・14世日鏡・15世日叙各上人に深く帰依した
  恵月院日真尼が開山したお寺です。
  日真尼は「武田信虎・信玄の側近右筆で、参謀としても知られる
  駒井高白斎政武の妻という説」・「駒井高白斎の娘で、武田24将
  の原加賀守昌俊(譜代家老職・陣場奉行・石和の領主)の妻という
  説」があります。
  恵月院日真尼は当初、永正年間(1504〜1521)、薬師如来を祀り
  信仰していたが天文年間(1532〜1555)、身延七面天女を信仰。
  女人成仏の法華経と七面大明神を安置する。当時は、七面信仰
  の初期にして当国第三の勧請、女人としては、最初の七面天女
  勧請という。
  その後、永禄11年(1568)身延山に自領を寄進し身延山直末と
  なり信立寺塔中定泉坊開祖の日宝上人を住職に迎える。しかし、
  日宝師は、恵月院日真尼を開山上人と仰ぎ、自らは、2世となり、
  法華経と尼御前の法号から真光山恵法寺とする。
  日真尼は、念願であった七面堂を元亀元年(1570)10月に新築。
  天正8年(1580)10月1日 天寿82歳の生涯を閉じる。
  18世日雅上人代、石和代官久保平三郎勝峰は五女の久竟院殿
  の逝去に際し、恵法寺を菩提寺と定め、その菩提のために、本堂
  建築資金を寄附。安永5年(1776)本堂と庫裡客殿を建立した。
  22世日要上人は、文化3年厄除祖師像奉安。以来、厄除けの寺
  として更に、同、江戸期に鬼子母神・大黒天・身延願満稲荷分社・
  毘沙門天が安置され、多くの信仰を集める。
  明治40年(1907)8月の大水害で庫裡客殿、鎮守七面堂、物置、
  願満稲荷社、総門、山門、境内を囲む白壁築地塀等が流失解体
  の大被害を受け、土砂埋没の本堂を残すのみとなる。
  その後、三代に亘る復興もままならず、漸く、33世長崎日汪上人
  が昭和23年(1948)入寺してより、復興整備事業に着手。
  境内、  墓地整備、光明保育園設立、本堂、庫裡、物置、鎮守
  七面堂、鷓鴣庵建立。 34世日瑛上人は、山門、御水屋、庫裡、
  客殿、鐘楼堂、庭園、七福堂、願満稲荷社等を建立。
  第二期整備事業を行い寺観が一新する。
 現在、恵法寺は、 
 心を癒す、七色の
 美しい音色を境内
 に奏でる水琴窟の
 寺として有名。
 又、甲斐石和温泉
 七福神霊場第四番
 の寺、開運招福・ 
 毘沙門天・大宝船
 七福神の霊場とし
 ても知られ、全国 
 から七福神めぐり 
 のバス・ツアー等 
 多くの参拝がある。
 
 寺の歴史はおよそ
 四百五十年程前に
 遡る。
  メ ー ル   ehouji @ nagasaki .email .ne .jp
        
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